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初代代表幹事のご挨拶


近世京都を垣間見た西欧人たち
松田 清

 さる6月26日午後、京都大学時計台記念館において設立総会が開催され、分野横断的な新しい学会、近世京都学会が設立されました。 多分野から発起人27名の賛同をえて、4月28日に発表された設立趣意書は、3.11大震災の惹起した近代文明への問いを受けて、 「地球的視点に立つとき、近代文明を総合的に問う有効な方法の一つは近代文明の世界化に先立つ各地域の近世文明に立ち返って、 地域的個性のなかに新たなる普遍を追求すること」、「日本の場合、近世京都はそのような地域的個性を学術的に解明する上で極めて重要な対象」 であると指摘しております。

  西洋近代文明を相対化する契機を洋学史・日欧文化交流史のなかに追求するという意図を持ちながら、 皮相な資料研究に流されやすい自分ですので、代表幹事という大任を全うできるかどうか、大変不安です。 学会発足にあたって、標題のもとに思いつく西欧人たちのことを述べ、代表幹事としてのご挨拶に代えさせていただきたく存じます。

 リスボン大地震(1755)は西欧世界に神の摂理に関する哲学的議論を巻き起こし、ヴォルテールの教会攻撃は激しさを増しました。 時のポルトガル宰相は首都再建に辣腕をふるい、やがてイエズス会解散を他国に先駆けて宣言しました。

  この大地震より百年近く前、北ドイツの片田舎レムゴーにルター派教会の牧師の子として生を受けたケンペルは、 魔女裁判の余燼を幼児の記憶にとどめながら極東の日本に到達し、博物学者の鋭い眼で元禄期の自然と社会を観察しました。 日本の諸宗教を比較し、鬼神を語らない儒教を合理的な哲学として高く評価しました。 彼の目に東山の京大仏は偶像崇拝の典型とみえたことでしょう。 大仏のスケッチの片隅に自分を描き込み、この目で見たと強調しているようです。 しかし、華やかな都名所記を手に入れ、京土産として大事に持ち帰りました。 宗教対立と戦乱に明け暮れるヨーロッパの諸国民と比べ、海外渡航の道をとざされた日本列島の住民は現世の世俗的幸福を享受しているとし、 日本の対外政策を肯定的に描きました。 この日本像は日本教区の再建を願い続けた教会勢力の反感を買いました。

 天明の大火(1788)は京都を焼け野原にしました。 しかし、安永天明期に花開いた京都の学術文化は大火を乗り越え、健在でした。 博物学者小野蘭山は門人たちの援助を得て、本草塾衆芳軒をただちに再開します。 京都の他の学塾もおそらく同様だったと思われます。 天変地異を前に京儒たちが西欧流の哲学論争をおこした例を寡聞にして知りません。 幾世代にもわたって、学問修行のために都に留学し、やがて各地で医療に従事しながら経書を読む、 いわゆる儒医として生計をたてることが多くの医学青年の理想でした。

  大火前に京を訪れたスウェーデン人植物学者ツュンベリーと交流を深めたのは当時の京医学界の雄、荻野元凱でした。 元凱は以前から西洋医学に関心を寄せており、ツュンベリーから黴毒の水銀療法も教えられたらしいのですが、話題の中心は植物知識だったようです。 元凱はツュンベリーの次に京都を訪れたオランダ商館長ティチングに、自宅の薬園に咲く植物を妻に描かせた本草画譜をプレゼントしています。 ティチングは小野蘭山の『花彙』に魅せられました。

 ティチングの後継者で俗事に通じた元貴族ファン・レーデ・トット・パルケレールは京都の漆工芸に目を付け、 笹屋に近世ヨーロッパの王侯貴族から哲学者、芸術家、学者文人に至るまで、著名人の蒔絵肖像プラケットを多数製作させました。 文化年間の商館長ドゥーフは機敏な交渉力によってオランダの権益を守りつつ、イギリス、ロシアの軍事介入に苦しむ幕府を助けた功労者ですが、 京都では祇園二軒茶屋で女中の豆腐切りをみて、「稲妻の腕を借らん草枕」の俳句を残すほど日本語に通じていました。

 1826年春、江戸参府の途上、京都を訪れた博物収集家フォン・シーボルトが蘭方医の新宮凉庭や小森桃塢に会い、 凉庭の大量の蘭書コレクションに驚きの声をあげたことはよく知られています。 しかし、それより十年ほど前の長崎留学時代、凉庭が猛烈なオランダ語学習の合間に、出島の商館員たちに漢方医療をほどこしたことに注目すべきでしょう。 漢蘭折衷、これが寛政期に開塾した小石元瑞の究理堂に始まる京都蘭学の主流です。 儒医の伝統は明治10年代まで京都に脈々と続きました。

 1868年3月8日のいわゆる堺事件でフランス水兵を殺傷した土佐藩士11名は、明治新政府によって直ちに切腹させられました。 この事件後、新政府は取り急ぎフランス、イギリス、オランダの公使を京都に招き、5月23日、ミカドに謁見させました。 西洋人が初めて天皇に対面したのです。西欧人が王城の地を垣間見た時代は終わりを告げたといってよいでしょう。 このときフランス公使レオン・ロシュに随行したフランス海軍中尉A.パリスの旅日記は、繁栄する大坂をあとにして京に向かうにつれ、 荒れ果てていく街道沿いの風景をよく描き出しています。 たどりついた京都は「美しいどころか、大坂にはるかに劣り、戦火の跡にかこまれた凋落都市」でした。

 近代文明の危機のなか、分野横断的な学術交流活動を通じて、かつて西欧人たちが垣間見た近世京都をより広くより深く捉え直すこと、 ここに本学会の特色、存在理由があるのではないかと考えております。より多くの研究者、好学の士のご参加を願う次第です。

                                               (2011.7.10 記)






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